
サファリジャケット、パンツスーツ、タキシード、シースルー・・・女性のワードローブを圧倒的に豊かにしたサンローラン。最後のデフィレのDVDが出るのを待ちつつ、偉大なクチュリエの回顧録。
クリスチャン・ディオールのアシスタントとしてデビューしたサンローラン。ディオールが他界すると、21歳でその後を継ぎ、4年後、1962年にはピエール・ベルジェと自分のクチュール・メゾンを開く。同じ年に披露した最初のコレクションのデフィレには、ロスチャイルド男爵夫人、フランソワーズ・サガンなど有名人がやってきた。オートクチュールに初めてスポーツウエアを取り入れ、モード史上に残るコレクションになる。順風に乗って、初の香水《Y》を発表。
1965年のデフィレではモンドリアン・コレクション(上の写真)を発表し、サンローランは押しも押されぬ人気デザイナーに。

1966年、サンローランは女性のスモーキング(タキシード)を発表し、センセーションを起こす。これ以来、スモーキングは違ったデザインで毎回デフィレに登場。サンローランのアイコンのひとつとなる。
66年は、パリの7区にプレタポルテのブティック、サンローラン・リヴ・ゴーシュが開いた年でもある。ブティックのゴッドマザーは、オートクチュールの顧客であるカトリーヌ・ドヌーヴ。
60年代の終わりには、NY、ロンドンにサンローラン・リヴ・ゴーシュのブティックを開き、リヴ・ゴーシュ・オムもスタート。コレクションに透ける素材が登場したのもこの時期。

広いジャンルのアートを愛するサンローラン、ロシアのバレエ・オペラやピカソ、マチスへのオマージュなど、70年代はアートからインスピレーションを得たコレクションが目立った。
80年代には今では定番になっているサファリジャケット、アフリカンルックを発表。
1982年、メゾン創立20周年記念にサンローランはインターナショナル・ファッション・アワードを受賞。3年後にはグラン・クチュリエのオスカーに輝く。
1990年のデフィレは、「自分に影響を与えたすべてのアーティストへのオマージュ」で拍手が止まない大成功に。
1998年、ファムのプレタポルテにアルベール・エルバズ、コレクション・オムにエディ・スリマンと2人のデザイナーがメゾンに参加。
7月12日、サッカーワールドカップ決勝戦の前に、スタッド・ド・フランスに300人のマヌカンを動員し、デフィレを行う。8万人の観客の前に、サンローランの歴史が絵巻のように繰り広げられる。サンローランにとってこのデフィレが最後の輝きだった。
2000年、メゾンは企業グループPPRに買収され、PPRはトム・フォードをアート・ディレクターに起用。モードのことは知り尽くしていても、高級ブランドグループ間の戦争には関わりたくなかったサンローランの“アデュー”が始まる。2001年、インターコンティネンタル・ホテルでサンローランの最後のデフィレ。2002年にはクチュール・メゾンを閉めることを発表した。写真は最後のデフィレのフィナーレ。カトリーヌ・ドヌーヴ、レティシア・カスタ、2人のミューズに挟まれながら寂しそうなサンローラン。

2004年、トム・フォードが去ってから、イタリア人デザイナー、ステファノ・ピラティがアート・ディレクターを務める。
黒いプルオーヴァーに黒いスカート、愛する男の腕の中にいれば女性はこれだけで美しい、といったのはサンローラン。中身のエレガンスの大切さを繰り返したのも彼だった。

月曜日の朝は「サンローランが亡くなった」というニュースで明けた。
「マドモアゼル・シャネルは20世紀前半を、サンローランは後半を象徴するクチュリエ。ココ・シャネルは女性を自由にし、イヴ・サンローランは女性に力を与えた」と、サンローランの “生涯のパートナー”だったピエール・ベルジェ。
ラジオFrance Interでは、彼の初めてのインタビューを放送した。19歳のサンローランは、哲学をやっていたけどモードに方向転換したことを、すごく内気そうな声で語っている。
61年、25歳の若さで立ち上げたメゾンは、オートクチュールメゾンとしては初めて株式上場。40年ののち、2002年にメゾンを閉じるときは、モード史上に残る盛大なデフィレでフィナーレを飾った。カトリーヌ・ドヌーヴとレティシア・カスタに挟まれて、最後にステージに現れたサンローラン、足取りやしゃべり方がぎこちなかった。死因は脳の癌。71歳。

台形ドレス、タキシード、サファリスーツ、透けるモスリンのドレスなど、女性のスタイルとして定着したシルエットの数々は、みんなサンローランのデザインだ。その中でも、女らしさが強調されるマニッシュなタキシードはすごい発明。60年代、パンツスタイルでオフィスに行けなかった女性を解放したのも彼の功績だ。

ローラン・コンテの『Entre les murs』が61回目のカンヌ映画祭のパルム・ドール。87年、モーリス・ピアラの『Sous le soleil de Satan』が取ってからなんと21年ぶり。開催国の名誉挽回 !
『愛の賛歌』のマリオン・コティヤールがアカデミー主演女優賞を取るし、『Bienvenue chez les ch’tis』が仏映画史上最高のヒットになるし、2008年はフランス映画の当たり年だ。
さて受賞作『Entre les murs』は、パリ20区の中学校に赴任した若い教師と、反抗的な4年生(13歳〜14歳)の生徒たちとの“戦い”の物語。審査委員全員一致で決まったそうで、審査委員長、ショーン・ペンは「アメージング!」と繰り返し、目が潤んでいたという噂も。
ドキュメンタリーすれすれのこの作品は、教師役だけが俳優で、生徒たちはみんなシロウト、初めて映画出演を体験した。
パルム・ドールを授与するために現れたのは、ロバート・デニーロ。さすがに会場がどよめいた。映画初出演の子供たちにとってデニーロからパルム・ドールを渡される感激はいかに!
“Entre les murs”は、“壁の間”“閉じ込められて”という意味だけど、イギリスのプレスは“the class”と訳していた。フランスでは10月に公開になる。
61回カンヌ映画祭特別賞は『Un conte de Noel/クリスマス物語』のカトリーヌ・ドヌーヴ、『Exchange』監督のクリント・イーストウッド、映画界の長老(?)2人が受賞。
カンヌ映画祭公式サイトはこちらです。

フランスの子供は(大人も)スーパーに並んでいる甘いクッキーやサブレをよく食べる。私も子供たちのおやつによく買う。すこし前から静かなブームになっているのが、ミッシェル&オーギュスタンの“丸くて美味しい”プチサブレ・シリーズ。人気の理由は新鮮・厳選の自然素材を使っていて、保存料・添加物が入っていない。それと丸いサブレが6つ入った立方体の箱が可愛くて、おやつにちょうどいいサイズだからではないかと思う。フランス人って、大きい箱をペロリとひと箱食べちゃうものね。これだと食べすぎない。厳選素材だけに高めのこのサブレは大人の女性にもウケているようだ。モノプリ、ボン・マルシェのグラン・エピスリー、ラファイエット・グルメなど、クオリティを売りにしたスーパーで売られている。
2003年、ミッシェル&オーギュスタンは突然脱サラを決め、ネクタイの代わりにエプロンをしめ、パティスリーの本を読みまくり、それぞれのおばあちゃんにも手伝わせて秘密のレシピを見つけ出した。3種類(塩バター、チョコチップ、バニラ)でスタートしたプチサブレ、今ではアーモンドとヘーゼルナッツ入り、そば粉、キャラメルシュガー、オレンジの花など種類が沢山。あまり甘くなく、固めの歯ざわり、素朴な味だ。塩味も登場。私が今、味見しているのは唐辛子入り、お酒のおつまみに良さそう!
さて、パトリックという知人が、日本に向けたオンライン・ショップ、アマギーズを立ち上げた。品物が見る見るうちに増えて、大したもんだ。1周年記念だそう。ミッシェル&オーギュスタンのサブレも売っている。
日本はクッキーというと有名メーカーの“クッキー詰め合わせ”が思い浮かぶけど、このサブレ、日本でもウケるだろうか・・・?

今年、バカロレアの筆記試験は6月16日〜20日。
文学バカロレアの場合、哲学4時間、地理・歴史4時間、第一第二外国語各3時間、文学2時間がこの5日間に振り分けられる。
哲学の試験は、題が出てそれについて自分の論理を展開する。今までの模試では、『仕事は人間にとって生活手段以外の意味を持つか?』とか『無意識の存在を証明できるか?』とか、親まで頭を抱えたくなるような題だった。
自分の独断や偏見を4時間かかって綴るだけなら、口の減らないフランス人はできるかもしれない。でもここでは、労働や無意識に関する考え方の変遷や、代表的人物(マルクスとかフロイト)の見解も説明しなければならない。哲学はバックの中で一番頭の痛い科目だ。
筆記試験に先立って、オプション科目の口頭試験が、5月14日にあった。
息子のジュリアンは日本語で、彼の親友はラテン語だった。
日本語の試験は、5つテキストが提案されていて、その中のひとつを試験管が選び、読ませて質問するという形式。
テキストは、フランス人留学生の日記、相撲の歴史、昔話(かさ地蔵)、コーヒーの働き、友達をエイズでなくした女子大生の手紙の5つで、なかなかバラエティ豊か。
ジュリアンは『相撲の歴史』にあたり、「相撲は日本人にとってどんな意味を持つか、他のスポーツと比較して答えよ」という質問だったそう。テキストには書かれていない、日本についてジェネラルな知識を必要とする質問。
「なんて答えたの?」と尋ねても、はぐらかして答えないので、結果がお楽しみ・・・
ラテン語の口頭試験を受けた友達は「試験管は優しかった。6年間、やっかいな言語を勉強してきたことを評価して、点を取らせようとしてくれた」
息子は2年でラテン語を投げ出した。「どの外国語でも文法を覚えるのが面倒、でも外国の人をコミュニケーションができるという楽しみがある。ラテン語は面倒なだけで、誰とも話せない」という理由。でもイタリア語やスペイン語などラテンルーツの言語を学ぶには役に立つ。日本人にとっての漢文、という位置づけだ。
オプション試験が終わると、本番の筆記まで1ヶ月。”最後の直線距離”なんだけど、ジュリアンからはその緊張感が全然感じられない。
上は「2008年BAC、これが出る」とヤマをかけているサイト。